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「ビール坂下」交差点の信号


私は学生時代に相鉄天王町駅近くにある横浜ビジネスパークで事務のアルバイトをしていた。そんな縁があって保土ヶ谷区にはちょっとした思い入れがある。
その頃の話だが、横浜ビジネスパークの敷地の西縁を通る大門通りに「ビール坂下」という奇妙な名前の交差点があることに気付いた。辺りは横浜ビジネスパークと住宅地しかないのに、なぜビールなのだろうか…。なにかいわくが付いていそうである。疑問に思いながらもそのまま何も調べずにいたのだが、今になってふと気になり、改めて現地を訪れて調べてみることにした。




勾配の急なビール坂


野村総合研究所脇から桜ヶ丘に向かって上っているのがこのビール坂である。坂の下のほうは大したことないのだが、登ってゆくにつれて次第に勾配を増し、しまいには相当な急坂となる。運動不足の御仁なら、間違いなく腰にくるだろう。




「ビール坂」と記された案内柱


周囲は住宅ばかりでビールに縁のあるものは全く無い。酒屋があるわけでも、ビールに酔ったドイツ人がたむろしているわけでもない。そこで試しに30年前の地図を広げてみると、そこには現在の横浜ビジネスパークがかつて日本硝子横浜工場の敷地であったことが示されていた。1985(昭和60)年にこの工場は操業を停止して埼玉県へ移り、その跡地を野村不動産が再開発して造られたのが横浜ビジネスパークであった。 ガラスとビール。両者を繋ぐのはビンである。

「保土ヶ谷区史」によれば、1893(明治26)年に東京麦酒がこの地で湧水を活用したビールの醸造をはじめ、後に大日本ビール(現アサヒビール)が買収してビールと清涼飲料水リボンシトロンを製造するようになった。1916(大正5)年に大日本ビールの工場に隣接して日本硝子工業保土ヶ谷工場が設立され、お隣のお得意様向けにビール壜やサイダー壜を生産するようになった。日本初とされる王冠栓もこの工場で製造されたようだ。
つまり、ビール工場、そしてビール壜工場があった場所に位置している坂だからビール坂と名づけられたわけだ。
大正9年に大日本ビールと日本硝子工業は合併し、この工場は日本最大の製壜工場として発展する。後に日本硝子工業は再び分離して独立、ビールや清涼飲料の製造は中止された。戦後も操業は続けられ、最盛期には640人の従業員を抱えていたという。


保土ヶ谷区内の相鉄線沿線はかつて工場がたくさんあった。この日本硝子の工場以外にも、星川駅北側の区役所周辺はかつて富士紡の大きな工場が聳えており、現在でも中小の工場がまだ点在している。帷子川の水運と鉄道の便といった交通の利便性や、大正4年の西谷浄水場完成と共に給水が開始された工業用水等がこの地を内陸工場地帯にした。
なお日本硝子の工場ではかつてはビン(ガラス)の原料となる珪砂を付近の星川から仏向町にかけての一帯で採掘していたようだ。最近出された保土ヶ谷区の広報にも「最近、ガラスの材料となる珪(けい)砂を掘った地下坑道の安全対策が、川島公園や星川二丁目等4箇所で実施されました。」とある。

水運と鉄道が使えて、水道も整っていて、しかも珪砂まで採れてしまうのだから、ビンをつくるにはこの上ない場所だったわけだ。ビール坂という地名はそんな嘗ての面影を今に伝えている。


所在地
 横浜市保土ヶ谷区神戸町・桜ヶ丘・月見台 地図(MAPFAN)


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