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近衛輜重兵大隊

現在の所在地:世田谷区池尻4丁目の一部

現状:駒場東邦高校・中学、こまばエミナース、警視庁第3方面機動隊など




屋内射撃場




不思議な線を描く屋根


 現在の田園都市線池尻大橋駅を中心として広がる世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋・東山といった界隈は、かつて陸軍の施設は数多く立地していた場所だった。これらの地域に病院や団地、公園、学校など、いずれも敷地面積の広い施設や建物が集中しているのは、旧軍用地を転用できたためである。

 現在の池尻4丁目の地に近衛輜重兵大隊(移転当時は第一中隊営)が移転してきたのは明治25年である。敗戦により軍隊が解散されて60年近くが経っているため、当時のものは殆ど残っていないが、この近衛輜重兵大隊跡にはちょっと変わったものが現存している。

 駒場東邦中高の南端に妙に凸凹したコンクリートの建物がある。これはかつて屋内射撃場として使われていた。射撃に対する耐久性と防音性を兼ね備えるべく壁の厚さが30センチもある。また屋根や側面が複雑な凹凸になっているのも防音効果を狙った形状らしい。
数年前までは日通の倉庫として使われていたが、今では別の業者がおなじく倉庫としてしている他、防音性を活用して音楽用の貸スタジオとしても利用されている。貸スタジオとは意外だが実に上手い使い方だ。




騎兵第一聯隊

現在の所在地:世田谷区池尻4丁目の一部

現状:公務員住宅、筑波大附属高校・中学、一般住宅など




「馬神」碑



忠魂碑


 駒場地区における陸軍兵営の本格的な集中は、明治24(1891)年に外桜田にあった騎兵第一聯隊の移転からスタートした。のちに一帯は兵隊屋敷と呼ばれるようになるが、騎兵第一聯隊の移転はそのきっかけを作ったことになる。

 この地域は当時純然たる農村だったが、兵営が集中することによって確実な農産物の出荷先が確保できると共に、いままで赤坂・青山・麻布・麹町などといった場所まで行って確保していた下肥を近所で容易に獲得することもできた。また兵隊相手の商店も次々に開業を始めるなど、棚ぼたでいろいろな恩恵を受けたのだった。その一方で第二次大戦の終戦まで演習による騒音・振動・砂埃などといった被害にも悩まされ続けることになる。

 戦後この敷地は学校用地に転用された他、南部には公務員住宅が建てられたが、最近住宅の多くが取り壊されて空地になっている。
当時を偲ばれる遺構としてはその空き地の西端に、日清戦争で戦死した兵士の忠魂碑(明治28年建立、同39年再建)が現存している。また騎兵隊だけあり、同地の東端には戦没軍馬を慰霊する「馬神」碑(昭和5年建立)が建っている。騎兵操典綱領第11には「馬ハ騎兵ノ活兵器ナリ、故ニ常時之ヲ訓練愛護シ必要ニ方リ其全能ヲ発揮セシメサルヘカラス」とあるように、軍馬には特別の想いが注がれていたのだろう。



駒沢練兵場

現在の所在地:世田谷区池尻、下馬、目黒区東山

現状:世田谷公園、自衛隊中央病院、防衛庁技研本部、住宅など




馬糧倉庫
現在も倉庫として現役



かなり大きい倉庫だ



食糧学校裏の境界石



排水溝跡


 世田谷公園や自衛隊中央病院付近はかつて駒沢練兵場の広大な敷地が広がっていた。この付近は往古から農耕にはあまり適さない地味の良くない土地で、上・中・下目黒村が入会秣場として共同利用していたのだが、8代将軍吉宗の時代に放鷹制が復活するとこの一帯は御拳場(鷹場)として公収され、明治になっても一部を除いて政府が管理して軍隊の調練用地としてしばしば利用されてきた。つまり日本に近代的な軍隊が誕生する以前からこの場所は軍事訓練場としての性格を帯びており、その後陸軍の駒沢練兵場として整備されたのも歴史的必然の帰結だったわけである。

 かつての練兵場の遺構として現存しているのは糧秣廠馬糧倉庫である。糧秣廠とは読んで字の如く、兵士の食糧や軍馬の秣(まぐさ)を管轄するセクションであり、この倉庫では軍馬の餌をストックしていた。住宅が広がる周囲とは不釣合いな大きな建物で、外観は面白みが無く実用本位であり、教えられないとこれが旧軍の遺構であることに気付きにくいのだが、扉のリベットなど細かいところをよくみると当時の面影が残っている。
現存する倉庫は2棟あり、いずれも補強された上で片方は都民生協の倉庫として、もう片方はヤマト運輸三宿営業所として活用されている。なお糧秣廠の流れを組んで倉庫の隣には食糧学校が建てられている。

 なお、食糧学校北脇の細い路地を進んでゆくと突き当たりの角に小さな墓地があるのだが、その一角に薄く「陸軍用地」と彫られた境界石が残っている。状況から察するに土地所有者が意図的に残しているようだが、場所が場所だけにこの小さな石柱も墓石なのではないかと一瞬疑ってしまいたくなる。

 そこから北西へ行った玉川通り沿いには池尻稲荷神社が鎮座している。玉川通りを通っていると境内に提げられている多くの赤い提灯が目に付くので、名前は知らなくとも神社の存在をご存知の方は多いかもしれない。
 この神社境内の南端にはコンクリートで蓋のされた水路が通っているのだが、これは駒沢練兵場に降った雨を排水する目的で作られた排水溝である。排水溝としての形状が残っているのは神社の境内のみだが、水路の跡地は現在も歩道として活用されており、神社を出た水路跡の細い道を南へ辿ってゆくと、食糧学校の前に到着することができる。
 ちなみに池尻稲荷神社の手水は天然の地下水で、汚染物質が検出されていない上質の水である。ご賞味あれ。



野砲兵第一聯隊

現在の所在地:世田谷区下馬2丁目の一部

現状:韓国会館、都営下馬住宅など




唯一現存する木造兵舎
(現在は韓国会館)




当時の面影を残す窓



近くの団地内公園にある石碑群



 明治の中頃に都心から兵営の移転が続いた世田谷地域であるが、明治31年から明治末期にかけて駒沢練兵場の西隣にも兵営が移転してきた。近衛野砲兵聯隊、野戦重砲兵第8聯隊、野砲兵第1聯隊である。このうち現存する構造物は野砲兵第1聯隊の東部186部隊が使った木造兵舎1棟と各石碑類である。木造兵舎は現在韓国会館として在日韓国人向けに利用されている。

 野砲兵とは馬で弾薬車と砲車を曳いて戦闘する兵士であり、このため馬とは切っても切れない関係にある。韓国会館から東へ100メートルほどの所にある都営下馬住宅内の公園には、この聯隊によって祀られた斃馬を追悼する2体の石碑がまとめて建てられている。一つは「馬魂碑」と銘され昭和14年に建立されたもので、碑文には「我部隊保管ノ軍馬ハ我隊将士ノ死生ヲ倶ニスヘキ戦友(以下略)」とあり、兵士達がいかに馬を慈しんだかを読み取ることができる。もうひとつは馬頭観音で「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と彫られている。詳細はわからないが、この梨山号は部隊にとっての名馬だったのだろう。

 現存の木造兵舎を含め、かつてこの地に建ち並んでいた兵舎群は、終戦後に戦災者や引揚者の収容施設として使われることとなり、ここに住んだ約1000人によって同胞支援会支部「世田谷郷」が形成された。 戦後の食糧難に苦しむ一般市民が昭和21年5月19日に皇居前広場に集まって食糧メーデー(飯米獲得人民大会)を開催したが、この一週間前に「世田谷郷」で「米ヨコセ世田谷区民大会」が開かれ、閉会後に参加者の一部がそのまま皇居までデモ行進を行った。デモ隊の一部は皇居内に闖入して宮内省(当時)の食堂に入って中にあった食糧を覗き見たという。このデモが先述の食糧メーデーの先鞭となったわけである。
 「世田谷郷」の人々は行動力に富んでいたようで、このデモのみならず、後年有志の住民が北海道札幌市郊外の江別へ開拓農家として入植し、その地に世田谷村を建設している。現在も江別のその場所には「世田谷」というバス停がある。


撮影地データ


屋内射撃場
池尻4-4

「馬神」碑
池尻4-22

忠魂碑
池尻4-22

(「天覧台」碑は目黒区編に掲載)


糧秣廠馬糧倉庫
池尻2-23

境界石
池尻2-23

排水溝跡
池尻2-34(池尻稲荷神社境内)


木造兵舎
下馬2-37(韓国会館)

石碑群
下馬2-38



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