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東京第一陸軍造兵廠・滝野川工場

現在の所在地:北区滝野川3〜4丁目

現状:都営住宅、JR社宅、王子工業高校、公務員宿舎など


 かつては軍都だった北区だけあり、東京第一陸軍造兵廠・十条工場の石神井川を挟んだ南側にも同じ一造の滝野川工場があった。しかし十条工場と違って遺構と呼べるようなものは殆ど残っておらず、跡地には滝野川という街が擁する木造家屋密集地のイメージとはかけ離れた団地群が聳えるばかりである。


  

 左:2本の境界石
 右:憲兵小屋跡


 滝野川3丁目にある東京国税局第2宿舎下の擁壁に沿って歩いていると、コンクリの崖に埋もれるようにして「陸軍用地」と彫られた2本の境界石が、20mほど間隔をあけて立っている。工場時代のものが当時のままで残っているのはこれらだけではなかろうか。十条工場跡と違って辺りにはここがかつて軍用地であったことを思わせるものが何も無いために、何も知らなければ道端でこの境界石を見つけたとしても、それが旧陸軍のものであるとは気付かないだろう。

 この境界石のある道を北に進み、突き当りを左に曲がって石神井川に架かる橋を渡たると、10メートル程先の道路に面した民家の軒先に、コンクリートが剥き出しになっている古く小さな小屋がポツンと建っている。
 ここは旧工場の敷地ではないが、かつてその道路には十条工場や滝野川工場を含む一帯の陸軍工場専用に敷設された軽便鉄道の線路が敷かれており、この小屋はかつて憲兵小屋として使われていたらしい。現在付近は完全に住宅地となっているが、なぜかこの憲兵小屋だけが木陰に残って、ささやかにこの地の昔日の様子を伝えようとしている。


    

 左:四本木稲荷
 中:「昭和十二年四月建立」と彫られた鳥居の柱
 右:圧磨盤で作られた招魂碑(四本木稲荷境内)


 都営滝野川3丁目アパートの一角に、昼猶暗い杜の中で小さな稲荷社が鎮座している。四本木稲荷神社といい、そもそもは十条工場の北東隅に建っていた東京陸軍第一造兵廠の守護神社で、滝野川にあるこの社はその分祠であるが、戦中に本祠が焼失したためここだけが残ったわけだ。鳥居を見ると「昭和12年建立」とあり、この神社が世の中が戦争一色の時代に建てられたことを読み取ることができる。なお現在本祠跡地は区立稲荷公園となっている。
 
 境内の奥には忠魂碑が建てられているのだが、この碑は当時の滝野川工場で火薬を作る際に使われた圧磨盤を用いている。滝野川工場内にあった雷汞場(※)では毎年のように事故が発生し、犠牲者も出ている。北区域の各工廠では1913〜1945年の32年間に、47件の事故が発生しており、中でも火薬や雷管の製造にかかわる事故は34件発生している。この多くが滝野川工場であったという。なお32年間の犠牲者は24人である。

 軍用地や軍需工場跡地でしばしば起こる問題として土壌汚染がある。この滝野川工場跡地もご多聞に漏れず、JR東日本滝野川社宅用地から都環境確保条例による基準の39倍の水銀と7.3倍の鉛が検出された(詳しくはこちらを)。街の外見からは完全に戦中の面影が消えているが、地中ではまだまだ当時の影が残っていたようである。

(※)雷汞場(らいこうじょう):爆弾の雷管に用いる発火具を製造する場所。雷汞とは、水銀を硝酸で溶解しエチルアルコールを加えて反応させたもので、僅かな衝撃や摩擦で爆発する。



海軍下瀬火薬製造所

現在の所在地:北区西ヶ原4丁目の一部

現状:東京外国語大学キャンパス跡地など




東京外大裏手の路地に残る境界石




下瀬坂


 都内の旧軍遺構は陸軍のものが圧倒的に多いのであるが、さすがは軍都北区だけあり、区南部の西ヶ原には海軍施設も存在していた。

 数年前に府中市へ移転した東京外国語大学の西ヶ原キャンパス跡地は、かつて海軍の下瀬火薬製造所があった。江戸時代、この地には幕府の御薬園が広がっていたのだが、1899(明治32)年に海軍がこの御薬園跡地に火薬工場を建設し、工場竣工と共に所長に就任した下瀬雅允(しもせまさちか)に因んで下瀬火薬製造所と称されるようになった。
 下瀬雅允は1888(明治21)年にピクリン酸を主剤として製造する下瀬火薬を発明した海軍技師で、この火薬は日露戦争ではじめて実戦使用され、とりわけ日本海海戦では威力を発揮したため、その優秀さが評価され以後海軍で主力爆薬として重用されることとなる。
 1914(大正3)年に同所は廃止となって、神奈川県平塚の海軍造兵廠(平塚火薬製造所)に移転され、跡地は海軍爆薬部の火薬庫として暫く使用されたが、これも昭和初期に移転し、1940(昭和15)年に東京外国語学校がやってきて木造校舎を建設し、以後学校用地として数年前まで使われ続けてきた。

 既に戦前の時点で軍用地ではなくなっているために、当時の遺構と呼べるものは殆ど残っていないが、外語大跡地の裏と西ヶ原小学校の間を通る小さな路地沿いには、「海軍用地」と彫られた境界石が路面のアスファルトに埋もれるように立っている。
 遺構ではないが、跡地正面に面する通りの東側には下瀬坂と名付けられた坂がある。もちろん火薬製造所所長の下瀬雅允に因んだ地名であり、建造物ではないがここがかつて軍用地であったことを伝えてくれる。

 先述の通り東京外国語大学は現在府中市の旧カントウ村跡地(味の素スタジアム近く)へ移転したのだが、移転前は旧海軍用地で移転後は旧陸軍およびアメリカ軍用地というのだから、なんとも軍用地と因縁のある大学だ。


撮影地データ


境界石(滝野川工場)
滝野川3-53

憲兵小屋跡
滝野川4-10

四本木稲荷神社
滝野川3-61
 (招魂碑は境内にあり)

境界石(下瀬火薬製造所)
西ヶ原4-51

「下瀬坂」案内柱
西ヶ原4-51(道路沿い)



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