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東京第二陸軍造兵廠・板橋工場

現在の所在地:板橋区加賀、板橋4丁目の一部

現状:東京家政大学、国立極地研究所、野口研究所、区立加賀公園、金沢小学校、住宅地など


 板橋区加賀一帯には比較的敷地面積の広い施設が集中している。また町名になっている加賀をはじめ、加賀公園、金沢小学校、金沢橋など現在の石川県に纏わる地名・名称が多い。これはこの一帯がかつては大名屋敷の中でも最大規模を誇った旧加賀藩の下屋敷跡地であり、明治維新後から第二次大戦敗戦までは陸軍の火薬工場(東京第二陸軍造兵廠・板橋工場)として使われていたからである。軍の解体後は民間工場、学校、研究施設、そして住宅地などに転用されて現在に至っている。当時のものは殆ど姿を消しているが、それでも工場跡地には当時の遺構がちらほらと散見される。




実物を使用した圧磨機圧輪記念碑




招魂之碑。加賀西公園内。




当時の工場と思われるコンクリート製建物




当時の赤煉瓦の建物。
左は表側、右は石神井川側。
コンクリートの隙間から煉瓦が見える。




赤煉瓦の工場近くにあった怪しい小屋。
これも当時のものか。




工場時代を伝える赤煉瓦のモニュメント
右上は東京砲兵工廠のマーク

 百万石を誇った加賀藩の下屋敷は石神井川を挟んだ現在の加賀1・2丁目や板橋3・4丁目一帯がその敷地であったが、武家社会が崩壊した後の1873(明治6)年に陸軍省がこの跡地を買収し、日本初となる黒色火薬の西洋式火薬製造所を開設した。以後1945年までこの地では陸軍で使用する各種火薬や機関銃、大砲などを製造し、最盛期には7000人の従業員を抱え、周辺にも軍需の民間工場群ができるほどの大工場に発展することとなる。

 陸軍の一大火薬・兵器工場が加賀一帯に立地した理由には、先述のようにここが旧加賀藩下屋敷で、操業に必要な広大な土地がまるごと確保できたことが挙げられる。特に危険物を取り扱うために緩衝地帯を広くとる必要があった。また敷地内を石神井川が貫いているため、機械の動力を水力(水車)に頼らざる得なかった当時としては恰好の場所であり、かつ鉄道開通前の当地にとって運搬に欠かせない水運の便が良かったことも重要な立地理由である。そして石神井川・隅田川・神田川の水運や中仙道を使えば、都心の各所や現在の東京ドーム一帯にあった当時の陸軍造兵司本部へのアクセスもよかったという地理的要因も挙げられるだろう。

 東板橋体育館と同じ区画にある加賀西公園には円盤状の石を組み合わせたモニュメントがあるのだが、これは当時の工場で使用していた圧磨機の圧輪をそのまま記念碑として転用したもので、1922(大正11年)に建立された。この圧輪は江戸幕府の命によって澤太郎左衛門が慶応元年にベルギーより購入し、明治9年より陸軍工場内にて黒色火薬の製造に用いられた。硫黄、木炭そして硝石を混ぜたものを、水を加えながら水車で得られた動力によって圧輪を回して磨り潰すことにより黒色火薬が作られる。なお記念碑にはダンゴを重ね合わせたようなデザインの東京砲兵工廠のマークが付いている。
 公園の奥に位置するこの記念碑は板橋区登録文化財に指定されており、その傍には板橋区教育委員会によって説明プレートが建てられ、圧輪がどのように導入され、いかにして火薬が製造されたのかを解説しているのだが、どういう訳かこの圧磨機圧輪が軍需目的で用いられたという文言は見当たらない。唯一「板橋火薬製造所」という名称なら記されているが、これとて製造所が軍関係の施設であったという説明はなされていないので、由来を知らない人が見たならば単なる火薬工場としか解釈しないであろう。
 この記念碑が日本における西洋式黒色火薬生産の端緒を記念するものであることは勿論であるが、この圧磨機によって製造された火薬が軍需目的で用いられたこともまた事実なのであるから、歴史教育の一環としてその点についても言及してもらいたいと考える。
 なお、同じ加賀西公園の植え込みの中には板橋火薬製造所有志によって明治36年に建立された「招魂之碑」がある。火薬製造の過程で発生した事故等により死亡してしまった従業員を悼んで建てられたものだろう。旧軍遺構のある場所には必ずと言ってよいほど、この招魂碑または忠魂碑が建てられている。

 工場の敷地や建物群は戦後に払い下げられて民間の工場や学校、住宅地などになったが、一部の建物は今でも現存している。加賀1-16の専門学校校内には、工場時代のものと思われるコンクリート造建造物が残っている。表面こそコンクリートだが、壁や窓まわりの構造を見ると当時の板橋工場内にあった赤煉瓦建造物と同じような形状をしているので、もしかしたらコンクリートを剥がすと中から赤煉瓦が出てくるかもしれない。煉瓦だと耐震性・耐久性などに問題があるため、コンクリートで周りを覆ってしまう例が非常に多い。
 また、そこから石神井川の川下へ100mほど行った所にある理化学研究所の建物もやはり東京砲兵工廠時代のもので、補強のために側壁がコンクリートで覆われているものの、コンクリの剥がれた箇所からは赤煉瓦が覗いていてかつての様子を偲ばせてくれる。特に石神井川側からフェンス越しに見える建物の側面はほとんど赤煉瓦が剥き出しになっており、とても観察しやすい。
 この赤煉瓦の建物の傍にも怪しい雰囲気の漂う小屋がある。一見すると単なるコンクリート造の倉庫小屋のようだが、赤く錆びた鉄の扉の構造が明らかに戦前に見られた古いタイプであるから、これも当時のものではないかと推測される(違うかもしれないが…)。

 工場建物群から上流へ遡った箇所に架かる緑橋のたもとにはグランフィーネ加賀というマンションが聳えているが、この真下に赤煉瓦のモニュメントがある。一見すると変わった形の花壇のように思えるが、これは戦後も工場としてここに残っていた東京砲兵工廠時代の赤煉瓦建造物を解体する際に、当時の様子を後世に伝えるべく造られたものである。ちょうど赤煉瓦の建物を正面から見た断面のような形状をしており、大体の部分は当時の建物を模して新しい赤い煉瓦を組んだだけであるが、屋根の部分に当たる箇所は実物の建物の側壁をそのまま保存して活用している。ダンゴを重ね合わせたデザインの東京砲兵工廠のマークも当時のままだ。またかつての姿を写した写真や図面などがプリントされた説明プレートもある。





弾道検査管




標的跡




「工兵学校」の記念碑




境界石(板橋5中)



 工場建物群の東側には区立加賀公園があり、園内には往時加賀藩前田家のお屋敷があったことを示す説明プレートが区によって建てられているのだが、加賀西公園の圧磨機圧輪記念碑の事例と同様に、ここが60年前まで陸軍の工場敷地であったことを説明するものは今のところ建てられていないようだ。しかし公園やその周辺にはかつてここが陸軍の工場であったことを示す具体的な遺構がちゃんと揃っているのだ。


 公園の西端にはブランコがあって、その隣は財団法人野口研究所の敷地となるが、ブランコのそばからフェンス越しに研究所の敷地を覗いてみると、藪に埋もれるように赤く錆びた太い鉄管が公園の方に向かって延びているのが確認できる。これは火薬の研究に用いられた弾道検査管である。またその延長上にあたる公園内の一角には、煉瓦積みの変わった形をした壁が残っているのだが、こちらは発射場の標的として使われていたものである。片方は誰にも見つからないような状態で茂みの中に隠れ、もう一方は公園の築山の中で息を潜めるように埋もれているが、いずれも板橋工場時代に使われた火薬・兵器研究の遺構であり、説明プレートはないものの物言わぬ歴史遺構として密かに現存しているのである。


 板橋工場の敷地内には陸軍工科学校の板橋分校も併設された。その跡地は現在区立板橋第五中学校になっているのだが、加賀公園内には工科学校のOB団体である工華会によって、「花匂ふ桜ヶ丘 永遠の平和を祈る」という碑句の添えられた「工科学校板橋分校跡」碑がひっそりと建てられている。またその板橋第五中学校の南縁には「陸軍省所轄地」と彫られた境界石が残っている。

 なお板橋第五中学校付近からは嘗て物資運搬用の軍用軽便鉄道が延びていた。現在の王子新道とほぼ同じルートで金沢橋を渡ったあとに専用のガードで赤羽線(現埼京線)を跨ぎ、そこから十条工場や滝野川工場へとつながり、そして更には東北本線を跨いで王子工場へ、そして隅田川沿いの豊島ドッグや船堀倉庫まで結んでいた。板橋工場側はその線路跡は殆ど残っていないが、北区側には若干形跡が残っているので、いずれ北区編でこれを取り上げたい。




民家の壁沿いに残る3本の境界石




怪しい門柱と側壁の跡




側壁跡(青囲)と境界石らしき突起(赤丸)




 板橋工場跡地の多くは、学校、研究施設、民間工場、マンションなどに転用されたが、跡地西側の仲宿に接する一部は戸建の一軒屋が建ち並ぶ住宅地となっており、工場跡地であったことを全く感じさせない佇まいである。その区画に建つ一軒の民家の壁沿いには、「陸軍用地」と彫られた3本の境界石が残っている。その家の敷地に固まるようにあるので、恐らく民家の土地所有者が故意に残しているものと思われる。かつては威光を放ったであろう陸軍の境界石も、数十センチという高さや、路地の道端というロケーションゆえに、軍靴の音とは無縁となった今では散歩中の犬のトイレに甘んじているようである。

 これらの境界石はちょうど加賀2丁目と仲宿の境界線に沿って建てられているのだが、その境界線を南東の方へ辿ると、あちらこちらに同じ形状をした古いコンクリートの側壁やその跡と思われる残骸を確認することができる。現在住宅地となっている区画は無論区画によって土地所有者もバラバラなのだが、にもかかわらずそこを同じ形状の側壁が貫いており、しかもその壁の描く線は境界線とほぼ一致するということを考えると、恐らくこの側壁は旧軍時代のものではないかと思われる。
 たとえば、東板橋公園北角の十字路には、周辺の雰囲気には不釣合いで存在意義のわからない古い門柱らしきものが、またその反対側には側壁の支柱部分の残骸とおもわれるものが衝突防止のためにゼブラ配色に塗られた上で立っているのだが、いずれも境界線上(こちらは加賀2丁目と板橋3丁目の境界)にあるので、旧工場時代の遺構ではないかと推測できる。
 また、そこから道沿いに西方数十メートルへ行くと、同じ形状をしている側壁支柱の残骸(こちらは塗装なし)や、コンクリート壁を撤去したあとと思われる形跡、そして境界石らしき突起が、同一線上に確認できる。コンクリート壁はそのまま一部は住宅の裏側に廻りながら、支柱だけが残っていたり、壁がまるごと残っている箇所もある。
 なおコンクリートの側壁についてはあくまで推測であって、資料的確認はしていないなので、悪しからず。



撮影地データ


圧磨機圧輪記念碑
招魂之碑

加賀1-10(加賀西公園内)

コンクリート造の工場建物
加賀1-16

赤煉瓦の工場棟
加賀1-7

赤煉瓦のモニュメント
加賀1-14

弾道検査管
加賀1-8(野口研究所内)

標的跡
加賀1-8(加賀公園内)

「工兵学校」碑
加賀1-8(加賀公園内)

境界石(工科学校跡)
板橋4-49(板橋第五中学校)

3本の境界石
加賀2-5

門柱?側壁?
加賀2-4・5



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