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 アウシュヴィッツとビルケナウの見学を終え、来た道を戻ってオシフィエンチム駅へ向かう。ビルケナウ(ブジェジンカ)から駅までは約3キロほどの道程だろうか。鉄道のヤードを跨いで幹線道路を左へ折れて、所々が穴で凹んだ道をてくてく歩いた。歩道の脇の車道をポンコツのフィアットやワーゲン、そしていかにも旧共産圏を思わせる武骨なトラックが通りすぎてゆく。同じようなトラックを10年前の北京で見た記憶があり、地球の表裏を問わず旧東側体制の遺物はどこも同じような恰好をしているのだと一人で勝手に納得した。
 帰路に際しては予めポーランド国鉄(PKP)のwebsiteでクラクフ中央行きの発車時刻を調べておいたので計画的に行動することができたのだが、さすがに広大な敷地の中で相当な距離を歩いたために足が棒のようになってしまい、駅へ着くや否や早々に軽食コーナーのベンチに腰を掛け、ハンバーガーを頼んでそれをひたすら貪った。クタクタのパンで大量のケチャップと薄い肉を挟んだ今時の日本では食べられないような代物だったが、鄙びた駅周辺にはこの他にどんな店があるかもわからないので、贅沢は言っていられないとその前時代の遺物的なハンバーガーでお腹を満たしたのだった。

 各種ガイドブックやトーマス・クック時刻表では、オシフィエンチムからクラクフ方面へ向かう電車の殆どがクラクフ中央駅から南へ数キロ行ったプワショフ駅へ向かうかのように案内されているが、決してそれだけではなくちゃんと中央駅へ到着する電車も何本も運行されている。尤も、いずれにせよ本数が多いわけではなく、プラットホームで待ちぼうけを食らっている旅客を馬鹿にするかのように、オシフィエンチムの駅構内には警笛を鳴らしながら次から次へと貨物列車がやってくる。この地が鉄道交通の要所であることは今も昔も変わることなく、それゆえに70年前ナチスに目をつけられてしまったわけだ。

 クラクフ行の電車はそれこそ日本では博物館に行かないとお目にかかれないような年代物の車両で、ヤケに大きなヘッドライトと実用本位の簡素なデザインが資本主義社会慣れしてしまった私の眼を釘付けにさせた。ボロいローカル電車と言ってしまえばそれまでだが、よく見ればギョロっとした眼(ライト)といい、黄色と青の塗りわけといい、どことなく可愛らしい印象すら受ける。
 それにしてもこの国の鉄道車両はその多くが落書きの被害に遭っているようだ。ドイツの鉄道車両も酷かったが、こちらはその上を行く。落書きの範囲は車体のみならず窓ガラスにまで及んでおり、車窓を楽しみたい私としてはシートを選ぶ際にその被害に遭っていない箇所を探さねばならなかった。

 電車は定刻を20分ほど遅れて発車。車窓を楽しむはずだった私は車内検札が来たあとにすぐ熟睡してしまい、ちっとも眺めることはできなかったのだが、そんな疲労困憊の私を乗せた電車は2時間弱で無事にクラクフ中央駅へ到着した。




オシフィエンチム駅前 (*)
鄙びた田舎町の趣が漂う



右側がクラクフ行電車 (*)


クラクフ中央駅へのチケット (*)
運賃は10.2ズオチ
クラクフまで65キロの旅路


電車車内 (*)
パッと見は綺麗だが、窓ガラスには落書きが。







 ワルシャワが東京ならば、クラクフは京都であろうか。今から200年前にワルシャワへ遷都するまでこの街は長い間ポーランドの首都であった。今でこそポーランド第3の都市に甘んじているが、かつてはコペルニクスを、現在ではローマ教皇のヨハネ・パウロUを輩出している立派な文化都市である。第二次大戦中ナチスドイツとソ連の両者によって国中を滅茶苦茶にされたポーランドだが、街の大半を戦禍で破壊されたワルシャワと違ってこのクラクフはほとんどその被害を受けておらず、中世の佇まいがそのまま残されている。このため旧市街地区やその南の丘に聳えるヴァヴェル城は、1978年にユネスコの世界文化遺産に指定された。街そのものが指定されたのはクラクフが最初である。なぜこの街が戦禍に遭わなかったのか、その理由としてはナチス占領時代に総督府がクラクフに置かれたこと、またドイツの対ソ連防衛線が偶々この街を避けるようにして敷かれたことが挙げられている。

 中央駅からクラクフ旧市街の中心へは徒歩10分もかからない。地下道を潜って城壁の一角をなすフロリアンスカ門の前を通って暫く歩けば中央市場広場へ着く。この広場は13世紀半ばにできたもので、現存する中世の広場としては欧州で最大級のものであり、広場の中央には同じく中世に建造された織物取引所が堂々とした姿で構えている。広場のあちらこちらにテントが立てられて、多くの人が食事や喫茶を愉しんでいた。

 広場の北東には2つの塔を持つゴシック様式の教会が聳えたっている。14世紀に建造された聖マリア教会であり、塔の上では1時間おきにラッパの演奏が行われる。正午にはラジオでポーランド全土に放送されるほど有名らしいのだが、私が聞いたところ実に物寂しくしかも中途半端なメロディーであった。というのも、このラッパのメロディーはヘイナウと呼ばれるもので、12世紀にクラクフへタタール人が侵攻した際、それを知らせようとした塔の上の見張り番がラッパを吹いたのだが、運悪くタタール兵に喉を射貫かれて吹いている途中に死んでしまった。この伝承を今に伝えるべく、メロディ途中で途切れさせているとのこと。なお、この教会の祭壇はナチスが泥棒したらしいのだが、戦後元に戻されたそうだ。

 世界遺産の街中を南方へ抜けると小高い丘の上にヴァヴェル城が聳えている。クラクフが首都だった頃に利用された歴代ポーランド王の居城であり、ルネサンス様式の中に築城当時のバロック様式が混在する興味深い構造になっている。現在では宮殿は博物館として、その他は公園広場として一般市民や観光客に公開されている。私が訪れたときは間もなく閉館時間になる頃だったため残念ながら僅かしか見学していないが、中世の面影がギュッと凝縮された市街とは打って変って、広々として落ち着いた中世をここで体感することが出来たように思う。





中央市場広場 (*)
現存する中世の広場としては
欧州で最大級のもの



聖マリア教会 (*)
塔上から1時間毎にラッパが吹かれる


旧市街の路地(*)


ヴァヴェル城 (*)
ヴィスワ川上より望む







 旧市街の南側にはガジミェシュと呼ばれる地区がある。ここは昔からユダヤ人街だった所で、今でもユダヤ人コミュニティーが継続されている。しかし、この一角に入った途端、今までとは違う妙に薄暗く湿った空気に包まれたような気がした。街の活気があまり感じられないのである。
 第二次大戦が始まったとき市内に住むユダヤ教徒は6〜7万人だったのだが、現在では僅か200人程しか生活していないらしい。クラクフ市の人口は大戦勃発時には24万人で、現在は75万人に膨れ上がっているのだが、市の人口膨張とは全く無関係にユダヤ人口が激減しているのは、大戦中の惨禍が原因に他ならない。

 この地区の一角にはポーランド最古のシナゴーグ(ユダヤ教会)だった建物があり、現在ユダヤ博物館として一般公開されている。残念ながら開館時間の関係でこの博物館を訪れることは出来なかった。博物館を見学できなかった分、せめてユダヤ人街の佇まいだけでも感じとろうと街を闊歩していると、些細ではあるがあることに気がついた。メノラ(ユダヤ教で用いる燭台)かダビデの星か、どちらか忘れたがとにかく図案化されたいずれかが入っている観光案内板らしきものが辻々に立っているのである。写真をご覧になればお解りのように、決して綺麗とはいえない、はっきり言えば古ぼけた建造物が多い中で、地図の入った観光案内板だけが妙に新しいのである。ユダヤ人は過去の記憶を残すことに執念を燃やす傾向にあるようなので、もしかしたらこの看板も観光を通して人々の目を過去へ向けさせようとする企図の顕れなのだろうか。
 なおガジミェシュ地区へ行くには中央駅からトラムの3番か13番で4つ目のul. Starowislnaで降りる。ちょうど停留所のすぐ傍にアイスクリーム屋さんがあり、ここのアイスクリームがとっても美味しくしかも箆棒に安い。ここでナッツ入りを食べ、その店が面するStarowislna通りを南へ向かってヴィスワ川を渡ると、ポドグジェ地区へたどり着いた。



ユダヤ博物館 (*)
以前はポーランド最古のシナゴーグ。
シナゴーグとはユダヤ教会のこと



ガジミェシュ地区の街中 (*)
使われくなったシナゴーグ跡が
廃墟のようになっている


 ポドグジェ地区の東側はクラクフの工場地帯となっており、一見すると観光とは縁の無い土地であるのだが、私はあえてそこへ足を踏み入れた。地図も何も持たずに出かけた私は薄暮の工業地帯を彷徨い続け、埃っぽい無機質な風景の中で同じ道を何度も行きつ戻りつしながら、ようやく目標の建造物を発見するに至った。リポヴァ通りに沿って建つその建物こそ、映画『シンドラーのリスト』で有名となったオスカー・シンドラーがかつて自分の工場として使用していたものである。今は別な用途で用いられているが、映画のセットとして使われて以来、私のような酔狂な客が立ち寄るちょっとした観光名所になってしまったようだ。
 映画では強制収容所に収監されているユダヤ人をシンドラーが雇用し、ここで労働することによって彼らのアウシュヴィッツ行きを食い止めたことになっている。実際にポドグジェ地区にはナチス占領時代の1941年にユダヤ人隔離地域であるゲットーが設定され、ガジミェシュをはじめとする周辺地域のユダヤ人がそこへ集められて隔離生活を余儀なくされたのだが、ユダヤ人への弾圧が激しさを増す1942年になるとポドグジェのゲットーは漸次閉鎖されて、代わりにプワショフ収容所(当初は労働収容所、後に強制収容所)が設けられ、周辺地域のユダヤ人が文字通り強制的に収監されることになった。映画に出てくる収容所はこのプワショフ収容所であり、まさにクラクフの街が映画の舞台なのである。なおポドグジェのクラクフ・ゲットーには、ゲットーが設けられた1941年3月3日から収容所への移行に伴い閉鎖された1943年3月14日までの間に2万4000人が暮らしていたという。

 ところで、映画の中でオスカー・シンドラーはユダヤ人の命を救った英雄として扱われている。映画のラストシーンでは実際に彼によって救われたユダヤ人やその子孫が、イスラエルにあるシンドラーの墓へ皆でお参りする光景が映され、そのままエンディングとなるわけだが、ここで疑問に思うのが、ドイツ人であるはずのシンドラーの墓がなぜ中東のユダヤ人国家イスラエルにあるのかということだ。この謎を解くと彼の不遇な人生が浮かび上がってくる。
 戦時中こそ彼は殖産に成功したのだが、戦後はアルゼンチンでの農場経営に失敗、ドイツに戻ってからのセメント事業にも失敗して所謂落伍者となり、1974年10月7日に貧困と病気によって逝去するまでの晩年16年間は、フランクフルト駅界隈の安宿に月200マルクで暮らしていたという。こんな惨めな生活を送っていたのだから、映画化されるまではドイツ国内ですら無名の人物だったわけで、それでは酷いとしてユダヤ人有志が遺骨をイスラエルのシオンの丘へ持っていき、そこで葬ったという次第である。
 色々な証言をまとめると、彼は人道主義者でも何でもなく、酒と女にだらしのない金儲けの好きな男であったらしい。自分を犠牲にして人助けをしようとしたのではなく、単純に労働賃金が安かったからユダヤ人を雇い続けただけで、戦争終盤になると彼はユダヤ人ばかりでなく自分の工場も救出しようと必死になっていたのだが、ただ時局の読み方を誤ってしまったために殖産の道はそこで絶たれてしまったようだ。
 では彼は血も涙も無い人間として捉えるべきなのだろうか。いや、そういう男でもいざという時は人間としての温情が頭をもたげて、そっと困窮者に救いの手を差し伸べたくなるものだと解釈すべきなのだろう。つまり人間を表面で捉えるのではなく、奥深いところまで心眼を向けてこそその人の本性が理解できるのであり、人種を問わず人間にはあらゆる可能性が潜んでいるのだと読み取るものなのかもしれない。

 なんて柄にも無く気障な感傷に浸っているうちにもとっぷりと日は暮れてしまい、街路灯が次々に灯され、住宅の窓からも明かりが零れ始めた。もう少し時間があればプワショフ収容所跡を見たかったのだが、もう時間がないので仕方なく諦めてホテルへと帰った。



ポドグジェ地区 (*)
ナチスの占領下には
この地域にゲットーが設けられて
その後強制収容所となったbr>



シンドラーの工場 (*)
映画でも登場した工場
使われ方こそ違うが現存中



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