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煉瓦造りのバラック群 外観 (*)




煉瓦造りのバラック 内部 (*)




抑留者用のトイレ (*)


 ヤードの線路の両側には抑留者を収容したバラック群とその広大な敷地が広がっている。その広さはアウシュヴィッツTの比ではなく、まさに見渡す限りの一面全てが収容所なのだ。
とはいえ現存しているバラックは、大門から見て左手にある煉瓦造のバラック45棟と、右手手前に並ぶ木造バラック22棟だけであり、その他は収容所の撤退・閉鎖時に焼却もしくは破壊されたために残っていない。

 煉瓦造のバラック群は女性拘留者を収容する区画であった。現存のバラックには全て入ることができるので、私も適当に何棟か入ってみた。1棟1棟は比較的間隔を空けて建てられているものの、同じ煉瓦造りでもアウシュビッツTの建物とは明らかに違う粗末な平屋造りであり、湿地の上に基礎なしで建設されたため、中に入っても土がむき出しになっており、薄暗い屋内はジメっとした湿気で満たされている。

 この日アウシュヴィッツやビルケナウを訪れている観光客の数は決して少なくなかった。団体客も多く見られ、敷地内の何処を見回しても人影を確認することができた。にもかかわらず、敷地が広大であり、しかもそれぞれが計67棟のバラックやその他の建造物の中へ分散して入ってゆくため、単位面積あたりの人の密度は極めて少ない。私が木戸を押し開けてバラックへ入ったとき、周囲には何人かの観光客がいたはずなのだが、入った途端に私ひとりだけとなり、抑留者がここに収容されていたという事実と屋内の暗さや湿気が恐怖感を煽ったため、思わず木戸を閉めることをためらってしまった。絶望に打ちひしがれていた抑留者達がいつ最期が訪れるかも解らずここで毎日を過ごしていたかと思うと、それだけで沈痛な想いが胸をこみ上げてくる。

 寝台は粗末な3段構造で、1段ごとに8人前後が宛がわれ、たまに大鋸屑を詰めた布団が備わっているときもあったようだが、基本的には腐った藁の上に毛布だけで寝かされていたという。ろくに食事も与えられず、強制労働で酷使され、その上衛生状態の悪い環境で多くの人間が押し込められていたのだから、たまったものではない。
屋根にはここの関係者の手によるものと思われる大きな壁画が描かれていた。寝台にも多くの落書きがあり、もしかしたら当時のものがあるのではと注視してみたのだが、それほど古くないものも相当あるようだった。おそらくここを訪れた見学客が記念(?)に書き残していったのだろう。

 煉瓦棟の一番東端には外見こそ抑留者棟と同じだが中身の違う建物がある。トイレ及び洗面室である。トイレと言っても、ちゃんとした便器があるわけでもなく、水が流れるわけでもない。他者の視線を遮る仕切りすらない。縦に長い建物のなかに、腰を掛けるにちょうどよいほどの段があり、そこにひたすら多くの穴があけられているだけだ。この穴に排泄をする。羞恥も何もない。
 このトイレが当時とんでもない衛生状態であったことは想像に難くない。トイレといい抑留者棟といい、ここはあまりに衛生状態が悪すぎる。アウシュヴィッツといえばガス室での殺戮ばかりがクローズアップされるが、ガス室ばかりでなく不衛生、特にチフスの発生によっても多くの人間が命を落としたのだ。


  ** SS大尉で医学博士のクレーマー教授の日記にある衛生及びチフス関係の記事 **

※各日付とも必要事項のみを抜粋

1942年8月30日
収容所内に多くの伝染病(発疹チフス、マラリア、下痢)が発生しているために検疫隔離。

1942年9月1日
午後、チクロンB(※)のガス噴射による1ブロックのシラミ駆除に立ち会う。

1942年9月3日
この収容所では誰でも罹患する下痢に初めて罹る。嘔吐と発作的疝痛を伴う。水は一滴も飲んでいないので、水が原因ではない。白パンしか食べなかった人も罹病しているので、パンのせいでもない。大量のホコリと害虫を発生させている不健康で大陸的な、そして非常に乾いた熱帯的気候が原因である可能性が大きい

1942年9月14日
2回目のアウシュヴィッツ病。体温37.8度。今日、3回目の、そして最期の発疹チフス接種を受ける。

1942年10月3日
アウシュヴィッツではすべての区域がチフスに感染している。


(※:ガス室での殺人ガスとして用いられたチクロンBの本来の用い方は、こうした消毒目的である)

(出典:ゲルハルト・シェーンベルナー著、栗山次郎・他訳『証言 「第三帝国」のユダヤ人迫害』 (柏書房・2001年))









木造バラック群 外観 (*)



木造バラック 内部 (*)



煙突だけが残る木造バラック跡地 (*)


 ヤードを挟んで煉瓦棟と反対側には木造のバラックが1列に並んで建っている。敷地面積は煉瓦棟側よりもはるかに広いのだが、収容所の廃止・撤退時に殆どが焼き払われてしまったために、建物として残っているのはその1列22棟だけである。とはいえ焼き払われた棟の多くも煉瓦の煙突だけは焼け残っており、広大な空き地には煙突ばかりがバラックの建てられていた箇所に何本も立っている。

 煉瓦バラックと同様に木造バラックにも自由に入れるので、いくつかの棟に入ってみた。大門から近いためか、煉瓦棟よりも多くの観光客が訪れており、とりわけインストラクターから説明を受けている団体客が多く、バラック内ではいろいろな言語が飛び交っていた。中でも英語を話す学生の団体は誰一人ふざけるようなこともなく、皆が解説員の説明を真剣に聞き、各々が自分なりの考えや思いをめぐらせているようであった。

 そもそも厩舎として建てられたものを収容施設に転用しただけあり、煉瓦棟以上に粗末さを感じる。しかし建物の数は木造バラックの方が圧倒的に多く、それだけ収容されていた人の数も多かったわけで、アウシュヴィッツの抑留生活を考えるならば、こちらでの状況を主として考えなければならないだろう。
 内部には屋根の明り取り以外に窓は無く、暗く遮蔽された空間には煉瓦の煙突と寝台があるばかりである。 寝台は煉瓦棟と同じく3段構造のものが備えられているのだが、煉瓦棟と違ってこちらは全てが木製であり、耐久性も環境も数段劣っていたものと思われる。
 また、大陸性の気候ゆえに夏は暑くなる一方で、冬は極寒になる。煉瓦造ならばそれなりの気密性が保たれて冬の冷たい外気を遮断できようが、隙間だらけの粗末な木造バラックではそれも到底叶わず、狭い空間に押し込められた抑留者達は建物中央の煙突で燃料を燃やして辛うじて暖を取っていたようだ。しかも戦時下とあれば燃料供給量も少なくなるのは当然であるから、そうした凄惨な住環境と不衛生な環境の中で露命を繋いでいたのだろう。

こうしたバラック群は一応当時から現存しているものとして我々に紹介されているが、当然そのままの状態で現在まで残されているはずも無く、必要に応じて補修や修繕が行われているようだ。私が訪れた日も随所でメンテナンスが行われていた。国立博物館であるからポーランド政府による管理・修繕はもちろんのこと、聞くところによればドイツをはじめヨーロッパ各地からのボランティアも維持や補修に貢献しているとのこと。
それに対して日本では維持管理費用の問題や街の再開発などのために、歴史遺産が次々に潰されている。とりわけ旧軍関係の遺構は目の仇にされるように姿を消している。負の遺産とはいえ歴史は歴史である。歴史に対する認識の違いと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、欧州と日本の現実の差を考えると、やはり虚しさを感じずにはいられない。



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