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 ビルケナウ(アウシュヴィッツU)がある一帯を現地ポーランド語ではブジェジンカと呼ぶ。ビルケナウとはドイツ占領下に名付けられたドイツ語地名であり、「白樺の野」を意味している。オーバーパスを渡ってからの風景はとても牧歌的な田園風景が広がっており、この先にかの絶滅収容所が存在しているとは想像できない。平原の上には麦や黍の畑が果てしなく広がり、その中に立つ民家や木立が風景にアクセントを加えている。空には雲雀がさえずり、穏やかな風が優しく吹き抜けてゆく。収容所さえなければ「白樺の野」という地名に相応しい長閑な場所なのだ。




ビルケナウまでの長閑な農村風景 (*)



ビルケナウの大門 (*)


 アウシュヴィッツ-Tからビルケナウ(アウシュヴィッツU)までは3キロほど離れている。
 私がアウシュヴィッツ-Tのインフォメーションセンターを出ると、ちょうどビルケナウへ向かう直行バスが目の前のロータリーで待機して客を乗せていたのだが、わずか3キロなので歩いて向かうことにした。
 ロータリーの外れにあった売店でサンドイッチを買い、それを頬張りながら大通りを歩く。元々この辺りは工場地帯らしく道路に沿って貨物用の線路が敷かれているのだが、既に使われていないようで所々途絶えており線路自体も錆びきっている。道路と線路の左手に並ぶ工場群も今は操業しておらず、ほとんど廃墟状態だ。アウシュビッツの抑留者は当時周辺の工場で強制労働させられたのだが、その工場とこれらの廃屋が関係あるのかはわからない。

 工場地帯が途切れると三叉路が現れる。道なりに右へ行くとオシフィエンチム駅へ向かい、左へ折れるとブジェジンカ村へ続く。私はそこを左へ折れて築堤を上がり、線路にかかるオーバーパスで貨物ヤードを跨いてブジェジンカ村に入った。オーバーパスの下では発車を待っていたりその脇を通り過ぎたりと、重く鈍い金属音を響かせながら、割と頻繁に貨物列車が往来している。この場所に巨大な強制収容所が立地することとなった理由の一つが、この鉄道交通の利便性の良さである。大量輸送機関である鉄道のヤードが存在することは、欧州各地から膨大な規模の抑留者を連行する上で欠かせない条件であった。


 やがて目の前に書籍やテレビで見覚えのあるビルケナウの大門が見えてきた。農耕風景にはあまりに釣り合わない建物ではあるが、それでも少なくとも遠景として眺めるうちは、周囲の畑や木立の与える印象が勝ってしまって、あの門の先で60年前に行われたことなど嘘の様に思えるほどだ。しかし歩みを進めて近づくにつれ、次第に監視等や有刺鉄線らしきものも視覚で捉えられるようになり、やはり先程の悠長な思いは幻想であることに気付くのである。道は門の手前200m辺りで先程のヤードから伸びてきた錆びた線路と並行となり、そのまま大門へ突き当たった。









選別が行われたヤード (*)



ヤードから見たバラック群 (*)


 アウシュヴィッツU-ビルケナウ絶滅収容所はアウシュヴィッツT基幹収容所の北西3キロの地点に位置している。一度に20万人を超える抑留者収容を目的とすべく、1941年10月に1万3千人の戦争捕虜を動員し、廃村されられたブジェジンカの地に250棟のバラックが建てられ、総面積175ヘクタールの巨大な収容所が出来上がった。建設に従事した捕虜のうち、竣工時に生き残った者はわずか200人だけだったという。
 当初は東部戦線におけるソ連軍捕虜の収容を目的としていたにすぎなかったが、やがてあわゆる抑留者を収容する施設へと目的が変更され、その結果ナチスの絶滅収容所の中でも最大規模とされる悪名高き場所となった。

 先程オーバーパスで跨いだ貨物ヤードからは、かつて一本の線路がこの大門を通って収容所内へと伸びていた。今でも大門近くの線路は残されているが無論使用されておらず、私が見た限りでは貨物ヤード側の線路も既に剥がされていた。ビルケナウが現役だった60年前は、ヨーロッパ各地から集められた数多の人々が皆この線路の上を通って、大門を潜っていった。今でこそ使われずに錆びてしまったが、この線路は歴史、人命の重さを一身に受けていたのだ。

 単線の線路は大門を潜ると3又に別れてヤードとなり、機関車の機回し用に収束した短い引込み線を残してプッツリと切れる。帰ることのない一方通行の旅路の終着点である。欧州各地から拘束されて長旅を終えた抑留者達はようやくここで降ろされるのだが、その時には既に疲弊して死に至っている人も相当数いたという。
 列車の到着は夜が多かったという記録もあるが、いずれにせよここで降ろされた抑留者はまず男女に分けられ、それぞれ隊列を組まされる。持参の荷物はその場に置くよう命じられる。次いでSSの医師が労働に適すると思われる者を振り分けた。幼い子や老人、病弱な人や衰弱した人などは原則的に不適格者と見なされた。荷物は持ち主に返されること無く没収され、労働不適格者はそのまま所謂ガス室へ連れて行かれたそうだ。辛うじて適格者と見なされた者も、収容所の惨状の中でいつ最期を迎えるか解らないまま露命を繋ぐこととなる。
 このヤードではこうして運命の選別が行われていたのである。いまでこそだだっ広い敷地に砂利と3本の線路が敷かれているばかりであるが、60年前にこの場所で多くの人々が犇きあいながら自らの運命が決められてしまう選別を受けていたのかと思うと、なんとも胸が詰まる想いがする。旅行者である私は何の心配も無く線路敷の砂利を踏んだのだが、同じ砂利を抑留者達はどのような思いで踏みしめたのだろうか。



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