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 このアウシュヴィッツ-Tはとても広い。そしてバラックの各ブロックにて展示されているものも非常に多く、ひとつひとつをじっくり見ていたら丸1日は必要であろう。
11ブロックを出ると、所謂アウシュヴィッツの概説的な展示はひと段落し、ここからはイタリヤ・オランダ(21ブロック)、フランス・ベルギー(20ブロック)、ハンガリー(18ブロック)、旧ユーゴスラビア・オーストリア(17ブロック)、旧チェコスロバキア(16ブロック)、ポーランド(15ブロック)、旧ソ連(14ブロック)、そしてユダヤ人(27ブロック)といったように、アウシュヴィッツで受難した関係国・人種による展示がなされる。このうち旧ソ連のブロックは私が訪問した時には閉まっていたようだったが、あれは単なる見間違いだったのだろうか。また「ユダヤ人の殉難と闘い」と題された27ブロックはこれでもかというほど内部を改造し、暗い通路を設けたり、不気味な音を流したり、随所で当時の映像を投影したりして、ユダヤ人の嘗めた辛酸を入場者の視聴覚に訴えかけようとしていた。

 こうした国(人種)別の展示館のうち、入り口に近いブロックは皆冷戦下の旧東側諸国で占められており、最も番号の若いブロックに東側の国の親玉である旧ソ連が充てられているのだが、これは単なる偶然ではないようだ。
 第二次大戦末期にアウシュヴィッツはソ連軍によって解放され、戦後ここを含むポーランド領は他の東欧諸国と共に共産圏に加わって実質的にソ連の衛星国となってゆく。戦争殉難の記念施設としてアウシュヴィッツ収容所の保存が決定されたのは1947年のことであったが、無論当時のポーランドはソ連影響下の共産主義政権であり、保存の基本方針としてコミンフォルムの目指す共産主義的国際主義の色彩を打ち出すことになった。つまり、各国に対して割り当てられたブロックの順序は、そのまま冷戦下当時の東側諸国の序列に繋がっているようなのだ。西側であるフランスやイタリヤも、左派のレジスタンスが自国の解放戦線に加わった関係で、戦後は左派の力の強い政権が生まれており、これが展示ブロックの序列に与えた影響も多分に考えられる。

 過去には冷戦と展示を巡る象徴的な出来事が発生している。前述のようにアウシュヴィッツでは国別展示館としてユダヤ館も設けられているのだが、ユダヤ人国家でありアメリカと親密な関係にあるイスラエルが中東戦争の当事者になった1967年から1972年までの間は、ユダヤ館が閉鎖される事態となったのである。
 冷戦崩壊後は共産主義的プロパガンダを排除してアウシュヴィッツに関する記憶を考え直し整理しようとする動きが活発となり、ポーランド政府やユダヤ人関係者などによって改めて保存展示の基本方針が策定されることとなった。ただ、展示ブロックの順序は変わらず今に至っているようだ。尤も旧東側諸国で多くの人々がアウシュヴィッツへ強制収容されられたことは事実であるから、敢て変える必要も無いのかもしれない。ただ、こうして戦争の惨禍を訴える記念施設で冷戦の傷跡を見るとは何とも皮肉な想いがする。

 冷戦終結後の世界は民族対立や宗教対立が噴出する状況になっていることは周知の通りであり、ここアウシュヴィッツでも冷戦の影響が消えてほっとしたのも束の間、今後は宗教的な対立が発生する事態となった。それについてはビルケナウの項で述べたい。







 見学順路は第4ブロックからはじまり、死のブロックである第11ブロックや各国展示館を経、正門の前を通り過ぎてガス室へと向かうのであるが、ちょうど各国展示館が建ち並ぶ敷地の中央にはちょっとした広場がある。ここはかつてSSが収容者達を点呼していた広場であり、復元された集団絞首台も当時設置されていた形で展示されていた。点呼広場の前に絞首台があるということは、つまり見せしめである。絞首刑の様子を拘留者の目に焼きつけ恐怖心を煽ったわけだ。 点呼広場もナチスの強制収容所では特徴的な施設である。アウシュビッツのみならず各強制収容所では点呼を執拗に行い、拘留者の非人間化を推し進めた。いわば強制収容所の象徴的空間と言えるだろう。




収容所と外界を隔てる有刺鉄線 (*)






集団絞首刑台(復元) (*)







焼却炉・ガス室 外観 (*)

 当時11ブロックでチクロンBによるガス殺実験が成功すると、これを本格軌道に乗せるべくガス室が設けられた。しかしソ連軍の西進によってドイツの敗色が濃くなるとアウシュヴィッツの閉鎖が決定され、施設の多くが破壊されることとなる。ビルケナウ(アウシュヴィッツ-U)のガス室及び焼却炉はアウシュヴィッツの閉鎖前にSSの手によって爆破されたが、アウシュヴィッツ-Tについては現存している。

アウシュビッツ-Tの見学順路では一番最後に設定されており、見学の最後に一番重苦しいものと対面することとなる。この数日前に訪れたダッハウも同じであったが、このアウシュヴィッツのガス室兼焼却炉は、収容所を取り囲む有刺鉄線の外側にある。



ここはそもそも単なる死体焼却施設であった。強制収容所では不衛生などによりチフスが発生しやすく、これによる死者が非常に多かったらしい。またチフスでなくとも衰弱したり処刑されたりと、死者は常に絶えなかった。このため収容所に死体焼却施設は必要不可欠だったわけだ。しかし、前述の通りガス殺計画が実行段階に移されると、この焼却炉内にあった死体安置所は強制収容所初のガス室へと改造されることとなった。奥行き16.8m、間口4.6mの窓のない部屋である。このガス室は1941年秋から1942年10月まで休むことなく稼動し続け、東部戦線で捕まったソ連兵やシュレジエン地方のゲットーから送られてきたユダヤ人がガス殺されたという。

窓一つないこの部屋に入って染みのついたコンクリートの壁を見ると、約60年前に私と同じようにこの部屋に入り、この場所で苦しみながら絶命していった人々の魂がまだここに漂っているのではないかという恐怖感に襲われ、背筋の凍る思いがした。



当初このガス室は収容所側の要求に応えたのだが、「処理」すべき人数に対して規模があまりに小さいため、やがてガス殺の舞台はビルケナウに建設された大規模なガス室兼焼却炉へと移ることになる。

ガス室の隣には焼却炉がある。ガス殺にかかる時間について、或る証言では「10〜15分」、別の証言では「20分ないし25分」とあり、これらから察するに30分以内で完了するようだが、その後「まるで石の塊のように、一つに凝固し」た人々の遺体は、そのまま隣の焼却炉で焼却処理される(*1)。不謹慎な表現だが作業効率に優れたレイアウトになっているのである。

当時3台あった焼却炉のうち現在は2台が残されている。1台の炉には1度に2〜3人の遺体が乗せられ、1日に約350人の遺体が焼かれたそうだ。
現在この炉には直接触れることができる。重厚な炉はいかにもドイツの工業製品であるという印象を与えるとともに、今こうして触れている炉に幾人もの遺体が乗せられ焼かれたのかと思うと、戦慄をおぼえずにはいられなくなった。



なお、このガス室手前にポツンと絞首台が立っている。これは戦後の1947年4月16日にアウシュヴィッツ収容所の元所長であったルドルフ・ヘスが絞首刑を受けた台である。
あらゆる死がこの一角には凝縮されている。



(*1)出典:マルセル・リュビー著・菅野賢治訳『ナチ強制・絶滅収容所―18施設内の生と死』 (筑摩書房・1998年)




ガス室(*)




焼却炉 献花が絶えない(*)




元収容所長ルドルフ・ヘスが絞首刑を受けた台(*)



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