
死のブロック 外観 (*)

死のブロック 処刑場となった壁 (*)
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アウシュヴィッツTの抑留者拘置用建物はみな同じような外観をしているが、第10ブロックと第11ブロックの間は下写真のように壁が設けられ入口の門が閉められていたため、この外から中庭が見られないようになっていた。また、写真左側の第10ブロックの窓には、ここから中庭が見られないよう木の板で塞がれているのがわかる。つまり見られては困る行為がこの中庭で行われていたわけだ。
壁の門をくぐると、両ブロックに挟まれた中庭の奥には供養花が供えられた高い壁が立ちはだかっていた。第11ブロックはブンカー、即ち収容所内監獄であり、抑留者によって「死のブロック」と呼ばれていたそうだ。ここでは連日大した審査も無いまま被疑者の処刑が決定され、それを実行する場がこの中庭である。特に銃殺刑に処せられる抑留者は中庭奥の壁の前に並ばせられ、後頭部への一発によって殺されていった。銃殺刑に遭った多くはポーランド人将校であり、その数は2万人と推定されている。ナチス占領下でのポーランドではワルシャワ蜂起をはじめとした独立運動が行われていたから、この際に捕まったポーランド人が犠牲になったものと思われる。
抑留者のなかでも医師だった者は収容所内の囚人医務室で医療行為にあたっていた。こうした医師たちは医務局の抑留者たちがSSの手によって出鱈目に「選別」されてガス室へ送られてしまう危険な状況にあったことを承知していたので、自分達の良心に基づいて入院をできるだけ拒み続けるのだが、一方で抑留者達はこの事情を理解していないために、医師たちはSSに加担し非人道的な行動をとっていると非難した。こうして抑留医師たちは良心の呵責を負っていったらしい。
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