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 19世紀後半や20世紀初頭を舞台にした映画や小説を観たり読んだりしていると、偶に「カナダ」という固有名詞が台詞となっている場面に出くわす。勿論現在のカナダを指し示していることが多いのだが、場面によっては当時のカナダが有する特徴、すなわち資源の豊かな希望の土地、宝の山、という意味合いで「カナダ」という語句を使っているケースも見受けられる。

ビルケナウの一角にも「カナダ」と呼ばれた場所(倉庫)があり、そこでは抑留者から没収した物品の数々を保管していた。それらはSS(ヒトラー親衛隊)やドイツ国防軍、そしてドイツの一般市民向けに再利用を目的として蒐集され、ドイツ本国へ頻繁に輸送されたようだが、それでも運搬しきれず「カナダ」に残ってしまったらしい。アウシュヴィッツ撤収時のナチスによる破壊隠滅工作により35棟あった倉庫も破壊・消滅されて6棟だけが残り、その中にあった物品の一部が第4ブロックの一部や第5ブロックで展示されている。「宝の山」の遺留品群は、歴史の悲哀を伝える「宝庫」だった。


 ちょうど第5ブロックで展示されている靴を見終わり階下へ移動しようと階段を降りていたとき、恐らく徴兵期間のために兵役を果たしているであろうポーランド軍の若い兵士2人が、すれ違いに大きな籠に遺留品らしき靴をドッサリ積みこんで上がっていった。1階へ下りると軍のジープがドアの所に横付けされており、その中にはケースに入った遺留品が沢山積まれていた。展示されている遺留品は解放時に発見されたものの一部であることは前述の通りだが、想像するにその「一部」は常に晒しっぱなしなのではなく、定期的に入れ替えて維持管理しているのだろう。古いもの故に管理には細心の注意が払われるわけで、こうした展示品の入換はここに限らずどこの博物館も行っていることだが、その任務を担っているのがポーランド軍であったとは知らなかった。




メガネ (*)
収容者の遺留品



同じく義足、松葉杖 (*)


食器類 (*)


トランクケース (*)
書かれている名前や番号が生々しい


幼児服 (*)


靴 (*)







 展示説明を見ながら悔しい思いをしたのが、各種書類が陳列されているコーナーに入ったときだった。具体的な遺留品や写真なら説明を読まずともそれが何を意味しているのかが把握できるのだが、書類となるとその殆どはドイツ語で書かれているからその内容はさっぱりわからない。一部の書類には完全英訳が付いているのでそれに関しては内容を知ることが出来るが、それ以外は解説の小さなプレートに「○○から××への書翰」程度の英語は付されているだけなので、ドイツ語のわからない私はそれ以上読むことができない。ハーケンクロイツと羽根を広げた鷲のスタンプや、文末にタイプされた" H e i l H i t l e r ! "という文言がナチス関係書類であることを伝えてくれ、この紙切れ1枚が人々の運命を左右したのかと思うだけで歴史の重みを痛感するのだが、やはり折角ここまで来たのだからちゃんと読んでみたく、不勉強な私のとってはそれが不可能であるわけで、何とももどかしい思いがした。

 そんな私にとって有難いのが写真の数々である。20世紀の歴史は他の時代と違ってその様子が映像・画像として残っているため、視覚を通じて把握・理解ができる点に大きな特徴があるのではないかと思う。また歴史の流れるスピードが俄然急になったのも20世紀の特色といえるだろう。この場所で起きた一連の惨劇も、私が生まれた年月日も、同じ20世紀であったことを考えると何とも不思議な想いがする。奥に見える煙突から恐ろしい煙がたなびいているビルケナウのヤードで「選別」を受けている人々の様子、囚人服に身を包みながら悲壮な表情を浮かべる抑留者達、骨と皮だけになって虚ろな眼を向けている子供、ブンカーの裏に積まれた死体の山。たった60年前の出来事。直視できない写真も多くある。それにしてもこうした写真をSS(ヒトラー親衛隊)はよく小まめに撮影したものだと、不謹慎ながらも感心させられた。日本と同様に敗戦時相当量の書類や写真が処分されているのだが、それでも当時のアウシュヴィッツにおけるジェノサイド関係写真は現在200枚程残っているらしい。









死のブロック 外観 (*)



死のブロック 処刑場となった壁 (*)


 アウシュヴィッツTの抑留者拘置用建物はみな同じような外観をしているが、第10ブロックと第11ブロックの間は下写真のように壁が設けられ入口の門が閉められていたため、この外から中庭が見られないようになっていた。また、写真左側の第10ブロックの窓には、ここから中庭が見られないよう木の板で塞がれているのがわかる。つまり見られては困る行為がこの中庭で行われていたわけだ。

 壁の門をくぐると、両ブロックに挟まれた中庭の奥には供養花が供えられた高い壁が立ちはだかっていた。第11ブロックはブンカー、即ち収容所内監獄であり、抑留者によって「死のブロック」と呼ばれていたそうだ。ここでは連日大した審査も無いまま被疑者の処刑が決定され、それを実行する場がこの中庭である。特に銃殺刑に処せられる抑留者は中庭奥の壁の前に並ばせられ、後頭部への一発によって殺されていった。銃殺刑に遭った多くはポーランド人将校であり、その数は2万人と推定されている。ナチス占領下でのポーランドではワルシャワ蜂起をはじめとした独立運動が行われていたから、この際に捕まったポーランド人が犠牲になったものと思われる。

 抑留者のなかでも医師だった者は収容所内の囚人医務室で医療行為にあたっていた。こうした医師たちは医務局の抑留者たちがSSの手によって出鱈目に「選別」されてガス室へ送られてしまう危険な状況にあったことを承知していたので、自分達の良心に基づいて入院をできるだけ拒み続けるのだが、一方で抑留者達はこの事情を理解していないために、医師たちはSSに加担し非人道的な行動をとっていると非難した。こうして抑留医師たちは良心の呵責を負っていったらしい。


 この第11ブロックは当時とほぼ同じ状態を留めているらしく、これまで足を踏み入れた博物館化したブロックとは違う独特の雰囲気が漂い、特にこのブロックにある地下牢は地下ならではの薄暗さや湿っぽさが余計に生々しさを醸し出していた。
監房には尋問中の囚人が入れられたが、なかでも18号室は餓死を宣告された囚人が収監された監房であった。また奥の方にある22号室には「立ち牢」と呼ばれる特殊な施設があり、これは90センチ四方の煉瓦の壁の中に囚人を入れて拷問をするのに用いられたという。
私は地下牢やその廊下をひとつひとつ見学してまわったのであるが、この立ち牢のある22号室はじっくり見ることができなかった。というのも、まことに呆れる理由なのだが、一番奥まっているこの場所でカップルがイチャイチャしていたからだ。2人の世界に浸って楽しそうだった。世界は広い。いろんな人間がいるんだとアウシュヴィッツの地下牢で改めて実感した。

 なお、アウシュヴィッツで青酸ガスによるガス殺が初めて行われたとされているのが、この第11ブロック地下牢である。ガス室が稼動する前、チクロンBの人体に与える殺傷能力がどの程度なのかを試験するため、1941年9月3日にこの地下監獄にて実験が行われた。実験対象となったのは約600人のソ連軍捕虜と収容所内の病院に入院していた約250人の患者で、「満員の密室の中で、即死の効果を得ることができた」という。これによりアウシュヴィッツではチクロンBを用いたガス殺が行われることとなる。




囚人服 (*) (#)






第11ブロック 地下牢・廊下 (*) (#)






第11ブロック 地下牢・個室 (*) (#)





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