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日本語版案内書


 AUSCHWITZ。現在は国立オシフィエンチム博物館としてポーランド政府の手により管理・運営されている。アウシュヴィッツとはナチスが占領後によって名付けられたドイツ語地名であり、当地はポーランド語でオシフィエンチムと呼ばれている。

 大まかに捉えると、所謂アウシュヴィッツ絶滅・強制収容所と呼ばれる施設は設けられた場所と機能によって以下の3箇所に分けることができる。


 アウシュヴィッツ-T (基幹収容所)
 アウシュヴィッツ-U・ビルケナウ (絶滅収容所)
 アウシュヴィッツ-V・モノヴィッツ (強制労働キャンプ)

この他近隣に多くの衛星収容所を擁しており、いわば強制収容所の複合体と言えるだろう。

 この博物館はアウシュヴィッツ-Tの跡地をそのまま活用している。アウシュヴィッツという言葉が連想させるユダヤ人絶滅のための収容施設は、この地域においてはここから約3km北西に行った所にあるアウシュヴィッツ-U・ビルケナウ(以下ビルケナウ)が主たる舞台であり、アウシュヴィッツ-Tは他の強制収容所と同じように政治犯、一般囚人、戦争捕虜等が拘留される施設であった。

 現在一般公開されているのはアウシュヴィッツ-Tとビルケナウであるが、当時の頑丈な石造りの建物が残ったために博物館化できたアウシュヴィッツ-Tと違い、ビルケナウは初期に建てられたブロック以外の殆どが木造バラックであり、しかもナチスが東方より迫ってくるソ連軍から遁走する際に証拠隠滅を図るべく破壊工作が行われたため、建物自体はあまり残っていない。このためT・Uを問わず、アウシュヴィッツに纏わる物品・遺留品は全てTへ集められて展示されている。

 私が到着したのは午前10:20頃であったが、正面の総合案内所前には既に何台かの観光バスが停まっていた。総合案内所には書籍等を扱う売店やKANTOR(両替店)、レストラン、ロッカー(地下にあり)、そして簡易宿泊施設まで備わっており、さすがは世界遺産に指定された観光地というべき様相で、後述するが博物館の中に入っても観光施設然とした箇所が散見された。アウシュヴィッツを訪問された方の中には、こうした観光地化を嘆く意見もあるようだが、この地で起きた惨劇を多くの人々にわかりやすく伝えるという役目を果たす以上、寧ろこうした形をとるのも前向きな一つの方法ではないかと考える。歴史に対して漠然とした意識しか持ち得なかった人々や曖昧な知識しか有しなかった人々に対し、過去を振り返らせて認識させる契機をつくるには、こうした改造や演出も必要だと思う。

ドイツのダッハウもそうだったが、この博物館は無料で見学できることも特筆すべき点だろう。日本でしたら大抵の場合は入場券が必要となるだろう。歴史物の保存・運営には当然費用がかかりますが、それをどのようにして拠出してゆくのか、どのように伝承していくのかという点に、国としての認識の差が表れているように感じる。
総合案内所の売店で各国語による案内書が販売されており(たった3ズロチ=約150円)、私も日本語版を購入してから見学に臨んだ。








正門 (*)



敷地内に建ち並ぶバラック(獄舎) (*)


 一旦総合案内所を出て、強制収容所お馴染みの文言"ARBEIT MACHT FREI"(英訳:Working bring freedom. 労働は自由をもたらす)の鋳文字が掲げられた正門を潜る。

 先程見かけた観光バスに乗っていたのだろうか、既に何組かの団体が大挙して入っており、砂利道を踏みしめる音があちらこちらから幾重にも聞こえてくる。私も同じ音を立てて案内書の地図を片手に順路に従って構内を進んだ。こういう場所はやはり砂利道の方が一歩一歩着実に歴史を追体験しているような気分を得ることができるように思うのだが、勝手な独りよがりだろうか。

ダッハウを見てきた私は、この証言と同じように初めて見たアウシュヴィッツTに驚いた。映画の影響なのか本の影響なのか、強制収容所といえば木造のボロボロバラックというイメージを固定観念として持ち続け、ダッハウはわずかながらもそれを裏打ちしてくれたが、収容所の象徴ともいうべきこのアウシュヴィッツの建物は、少なくとも外観を見ただけではそこで起きた過去を連想させるものではなく、綺麗に揃った並木と共に古い公官庁の建物が整然と並んでいるという感を受けるばかりであった。

28棟あるブロックのうち半分近くに入ることができる。建物こそ当時のままのようだが、中は一部の棟を除いてすっかり改築され、展示や説明に適した構造に改められていた。


** 抑留者のひとりであるマルク・クラインの記述 **

アウシュヴィッツに着くやいなや、この収容所にやや驚きに近い印象をわたしは抱いた。集団居住用の建物が妙にこざっぱりしているのだ。基幹収容所は二八のブロックからなっていたが、すべて瓦葺きの石造りで、きちんと三列に並んで建っている。ブロックとブロックのあいだには、縁取りのしっかりした石の小道が通してある。

(出典:マルセル・リュビー著・菅野賢治訳『ナチ強制・絶滅収容所―18施設内の生と死』 (筑摩書房・1998年))








ガス室の部品類
瓦礫の中から発見された (*)




チクロンBの空き缶 (*)



大量の髪の毛 (*)



髪の毛で作った生地 (*)


 まず最初に足を踏み入れたのは第4ブロックで、この棟は「絶滅」というテーマに沿った内容の展示がなされている。主にユダヤ人やジプシーといった民族が迫害される過程や悪名高いガス室等での虐殺行為に関する事項を、多くの写真や説明パネル、そして実物を織り交ぜながら解説している。

ビルケナウのガス室は収容所閉鎖時には破壊されたのだが、その際に瓦礫と共に残っていたガス室の部品類が展示されていた。「シャワー」栓や炉の蓋などを見ると当時のガス室の様子を想像せずにはいられない。



 アウシュヴィッツに関する書籍では必ず説明される毒薬チクロンBもその中の一つとして説明展示されている。元々ドイツ陸軍の害虫駆除用殺虫薬として使われていた青酸化合物だが、ヘムウノやトレブリンカ等他の絶滅収容所で行われているトラックエンジンを用いた排ガスによるガス殺の効率が芳しくなかったので、これに代わる手段として考案されたのがチクロンBを用いることだった。

最初のガス殺は1941年9月3日(最初の拘留者が到着した3ヵ月後)、アウシュヴィッツTの第11ブロックの懲戒施設内で試験的に実行され、この結果が満足するものであったために、死体焼却炉に隣接する死体置き場の中に本格的なガス室を設置することになった。ビルケナウ設置後はガス殺がより本格的に行われていく。アウシュビッツでは1942年から1943年の間だけでも20トンのチクロンBが使用されたそうだ。ここでは解放時に発見されたチクロンBの空き缶の他、陳列戸棚の中には缶の中身である薬粒も展示されているのだが、この薬粒は果たして本物かどうかはよく解らない。いくら珪酸土に染み込ませたものとはいえ、青酸化合物の薬品が60年近くも原型を保ったまま残っているものだろうか。模造品かもしれない(もしかしたら、それについてちゃんとした説明があったのかもしれないが…)





 おそらくここを訪れた人の多くがこれを見て絶句してしまうのではないだろうか。薄暗いためにはじめ見た刹那は得体の知れないものが大量に展示されているだけのように思うかもしれないが、よく見ればそれが何であるかは誰しもがわかるはず。女性の髪の毛である。アウシュビッツへ到着した女性抑留者は髪を刈られるが、その髪は倉庫に保管されてドイツ本国へ運ばれ、マットレスや生地に加工されたという。髪と共にその生地も展示されていた。

 時が経っているために変色してはいるものの、束ねたままや三つ編みのままの髪も多く、 案内書によれば、解放時に倉庫でソ連軍が発見した髪の量は約7トンにのぼるとのこと。
美容室などでは切られた後の髪が沢山集められている場面を見かけることがあるが、見慣れていない私はそれですらちょっとした気味悪さを感じてしまうから、況や…。人髪を生地にしようとする発想には、逆の意味で感心させられる。



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